あの頃のわたしへ

児童虐待は絶対に許されません。サバイバーとして、親にされてきたことを書いています。当事者が「自分の状況はおかしい」と考えるきっかけになれば嬉しいです。

このブログを始めるにあたって

私は実家を出た成人です。自分で生計を立てています。
精神的な病気にはかかっていないと思います。

 

私は、小さいころから家を出るまで、
毎日、父親に頭を叩かれ、物を壊され、暴言を受けていました。
父親は、これは「しつけ」だと、「叩いている方も痛いんだ」と言い、
母親は、最終的に「あなたが大人になりなさい」と言いました。

 

私が子どもだった当時、今ほど児童虐待は広く認識されておらず、
虐待は「死んでしまうような酷い扱いを受けている」ことでした。
私は、この毎日がおかしいことにも気づきませんでした。

 

私は、自分のような子どもを増やしたくありません。

 

「虐待」というと大げさかもしれませんが、
あえて、虐待を受けていたと言わせていただきます。

 

児童虐待をなくすために、サバイバーである私に何ができるのか、
ずっと考えていますが、なかなか見つかりません。

 

一方で、私はまだ完全に立ち上がれていません。
自分に害を加えた親や、助けてくれなかった社会に対する怒りを持っています。
その怒りが、日常生活に支障をきたしていることも自覚しています。

 

そこで、自分が当時何をされていたか、
どういう状況だったか発信したいと思いました。
はじめは、なにか作品にしようかと思いましたが、
三日坊主の私にはなかなか難しいことでした。

 

そこで、まず、言葉で表そうと思い、このブログを立ち上げました。

 

虐待を受けている/受けていた方の中には、
「こんなのは生ぬるい」と思う人もいるかもしれません。
報道されるのは、酷い事件ばかりです。

 

ですが、私は、虐待に「重い」も「軽い」もないと思っています。
「軽い」と思っている/思っていた人が、声を上げ、
助けを求められるようにしていきたい。

 

私がこのブログを書くことで、
苦しい状況に置かれている/置かれていた人が、
「自分の環境がおかしい」と気付くきっかけになれば嬉しいです。

 

私が自分の状況に気付いたきっかけ(別の記事に飛びます)

私が自分の状況に気付いたきっかけ

私は、中学受験をして私立中高一貫校に進学し、その後、奨学金とアルバイトの収入で大学、大学院へ進学、卒業しました。 

私は家庭の中だけではなく、小学校、進学塾、中学校・高校、大学、アルバイト、全ての生活がうまくいっていませんでした。

 

自分に危害を加える親だけではなく、信用できない教師、受験や学校生活のストレスを他人にぶつける周り、親の言う「常識」は知っていても年相応の常識を知らない私、うまくいくはずがありません。

 

私は、ちゃんと育てられていないので、狂っていました。
しかし、「逃げる」という選択肢の存在を知らず、また、レールから外れてはいけないと刷り込まれていたので、違和感を抱えながら「普通」の生活を続けていました。


ところが、「普通」の生活をしていた私に、レールを外れる時がきました。
大学在籍時、就職活動に失敗したのです。
内定を1つももらうことができませんでした。
当時は不景気、常識を知らない私は、うまくいかない就職活動に打ちのめされていました。


それでも完全にレールを外れることが怖かった私は、大学院進学を決めました。
ろくに学校見学もせず、ただ「まだ出願が間に合う」という理由だけで、家からは通えない、就職のプラスにもならないような、地方の大学院へ進学しました。


こうして、私は初めて親から離れる機会を得ました。

 

結局、大学院は奨学金とわずかなアルバイトの給料では通いきれず、単位を取り切ったら実家に戻り、登校が必要な時だけ学校へ通う形で卒業しました。
向こうで通いきれなかったことは後悔していますが、一時的に家を脱出したことは私にとって大きな自信になりました。


私は、大学院で初めて学生生活を楽しいと思いました。
勉学はまるでダメでしたが、とても充実した日々を過ごしました。
また、さまざまな背景を持つ人が通う学校だったため、多様な価値観に触れ、レールを外れても生きていけることを知りました。

 

結局、またしても内定はもらえませんでした。
フリーターをしながらハローワークに通い、条件は悪いものの、正社員になりました。

 

安月給だったため、しばらくは実家で暮らしていましたが、幾度となく父親と衝突を繰り返しました。
ある時、ついに勢いで不動産屋に駆け込み、実家を出ました。


奨学金を返しながら家賃を払う生活は苦しく、実家暮らしの知り合いを妬む毎日ではありましたが、身の安全が保障されたためか、自分の人生を見つめ直す時間ができました。
20年以上生きて、ようやく過去の自分を振り返り、受け入れていこうと思えるようになりました。
全てを受け入れることはまだ難しいですが、一人で考える時間は確実に人生を豊かにしてくれます。

 

その後、人生で初めて努力をして、やっと人並みの給料を貰える職に就くことが出来ました。

今は、ようやく生活が軌道に乗ってきたところです。

小学生の時の記憶~中耳炎

私は毎日叩かれるたびに泣いていて、そのせいか、長いこと中耳炎を患っていた。


病院に行ったきっかけは覚えていないが、健康診断でひっかかったのだろうか。
初めて耳鼻科に行った日、当時小学1、2年生くらいだった私は、どういうわけか医者の鼻を見るための器具が怖くて、病院でずっと泣いていた。
最終的には医者に匙を投げられ、大学病院を紹介されることになった。


母は、「あなたがちゃんと診察を受けないから、病院代が高くなっちゃったじゃないの!」と怒った。
その後、何年も大学病院に通うことになるのだが、このことは何度も何度も蒸し返された。

 

小学2年生の時、耳がとても痛くて、ずっと「痛い」と言っていた日があった。
ちょうど問題集「最レベ」を使って母親にマンツーマンの指導を受けていた時に痛み出したので、「勉強したくないからってそんな言い訳をして!」と怒られた。
次の日病院に行ったところ、「中耳が腫れている」と診断されたが、母から謝罪はなかった。

 

中耳炎の治療で病院へ行ったある時、最後に口の吸引をするように言われた。
私は吸引のマスクが怖くて、拒み続けた。
結局、吸引はしなかったのだが、母は「カルテに書いてあるから治療費取られたじゃない!」とずっと怒っていた。

その日の夜、家にあった吸引の機械(マスクはなく、吹き出し口に口を近づけるもの)に口を近づけていたら、母は「病院でやらなかったのにここでそんなことやらないで!」と怒鳴っていた。

一度した失敗に挽回の機会はないのだ。


中耳炎が完治したのは、小学5年生くらいだった。

 

これも泣いていたせいかわからないが、私は常に鼻が詰まっていて、口呼吸をしていた。
未だに鼻呼吸が苦手で、それが原因なのかわからないが、虫歯も多い。
非常に困っていることの1つだ。

幼稚園の時の記憶

私には昔の記憶はほとんどないのだが、覚えている限りでは、幼稚園に通っている頃から父親に頭を叩かれていた。

 

怒られる内容は、大体「片付けをしていない」ことだった。
実家を出るまで、「片付け」についてはほぼ毎日怒られ、頭を叩かれたり、「家を出ていけ」などの経済的立場を利用した暴言を受けていた。
後に、父は「昔は叩いていなかった、何度言っても聞かないから叩くんだ!」と何度も言っていたが、その「昔」とやらは記憶にない。


幼稚園年長のころ、よく覚えていないのだが、何かをして、クラスメイトと2人で先生に怒られたことがあった。
先生は「何もしないから来なさい」と言ったが、私は信用できなくて、ずっと先生から距離を取っていた。


私の父は、「怒ったりしないからこっちにこい」とニコニコしながら呼びつけ、そばに来るなり怒って叩く、だまし討ちのようなことを少なくない頻度でやっていた。

 

クラスメイトはすぐに先生のところに行ったが、私はいつまでも先生のところに行くことはできなかった。
最終的に先生は私のところにやってきて、私の頬を叩き、「なんで言われてすぐに来ないの!」と怒った。

 

私は何もしないからという言葉を信用していない。